学校から

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授業に力が入ってます① 7月10日(金)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 休校によりできなかった授業。遅れを取り戻すために、指導にも熱が入っています。

 統合してほぼ倍になったクラスの人数。本来であれば、ペア学習やグループ学習で対話や交流活動を行う中で刺激を与え合い、考えを伸ばせるはずでした。しかし、現在は、飛沫感染防止の観点から対話や交流は控えざるを得ません。せっかく人数が増えて、より多くの友だちと交流を図っていくべきなのに。残念です・・・。

 そのかわり、個人で考えを深めらるように、思考を重視した授業を意識して展開しています。子供たちも集中して取り組んでいます。 (文責 海寳)

左の写真・・・2年生の算数。ものさしを使った長さの測り方の学習です。

右の写真・・・6年生の算数。割合の表し方を調べよう。「比」の学習です。

 

 

芋苗成長日記2 7月7日(火)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 強風の中ですが、しっかり踏ん張っています。茎が太くなりましたね。順調に育っています。 (文責 海寳)

 

 たらいの稲もぐんぐん伸びています。茎も分けつし、一株で15・6本ぐらいあるでしょうか。稲も強風に負けずにしっかりと根を張って踏ん張っています。

 

 

 

 

 

七夕飾りができました。 7月7日(火)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日は七夕(たなばた)です。

 七夕はもともと中国の七夕(しちせき)伝説からきたそうです。織姫(「織女」=天帝の娘)は神々の着物を織るのが仕事で恋人も作らず働いていました。それを見た天帝は、天の川の対岸に暮らす彦星(「牽牛」=まじめな牛飼い)と引き合わせ、やがて二人は結婚します。ところが、その後二人はまったく働かなくなり、怒った天帝は二人を引き離し、年に1度だけ会うことを許します。

 この伝説は、中国から日本に奈良時代には伝わったようですが、江戸時代には「七夕(しちせき)の節句」として庶民にも広まったそうです。

 日本にも「棚機つ女」(たなばたつめ)という伝承があるそうです。「棚機つ女」と呼ばれる女性が水辺の機屋(はたや=織物を織る場所)で神のための着物を織って供え、豊作を祈るものです。その織り機の名前が「棚機(たなばた)」でした。

 中国からの伝説と、日本の伝承がいつしか一緒になり、「七夕」に「たなばた」が当てられたようです。

 

 笹竹には、七夕飾りや児童が願い事を書いた短冊がたくさん結ばれています。今夜は天の川は見られるでしょうか。子供たちの願い事が天に届くことを祈っています。

 天の川は英語で「MILKY WAY」(ミルキーウェイ)ですね。 (文責 海寳)

 

 

 

入学式が挙行されました 7月4日(土)

 

 

 

 

 

 

  夜半過ぎから強まっていた雨も、朝には少しずつ小止みになり、開始前にはすっかりあがっていました。

 本日、晴れて3か月遅れの入学式を挙行しました。宇井成一香取市長、金子基一教育長のご臨席を賜り、わらびが丘小学校の第1回の入学式を無事に終えることができました。

 式の参加者は、来賓が保科PTA会長を含めて3名、在校生の参加は児童会の代表2名のみ、保護者も各家庭2名以内とできる限り縮小し、三密を避ける配慮のなか行いました。

 新入生は、すでに一か月学校生活を送っているので、最後まで皆きちんとした姿勢で臨めました。返事も立派でした。

 宇井市長は、「キラキラした皆さんの瞳を見ることができてとてもうれしく思います。一日でも早く小学校の生活に慣れて学校に行くのが楽しみになるように頑張ってください」と語りかけました。 

 金子教育長からは、「みなさんは、わらびが丘小学校に入学する初めての一年生です。早寝・早起きをして、朝ごはんをしっかり食べて、学校に来ましょう」とお話がありました。

 2名の児童会長(ともに6年)からは、「一緒に楽しいわらびが丘小学校にしましょう」と歓迎の言葉がありました。

 入学式という一つの節目を迎えられ、保護者の方々の感慨もひとしおのことと思います。誠におめでとうございました。今後とも、わらびが丘小学校に対するご協力とご支援をよろしくお願いいたします。(文責 海寳)

地名のなぜなぜ 7月2日(木)

「ここは香取市九美上29番地の1」

「地名のなぜなぜ?」という掲示物を作成し、校長室前に掲示しています。

 児童は、「へぇ~、そうなんだ」「はじめて知った~」と口々につぶやきながら、書かれている説明を興味深く読んでいました。

 福田・九美上にまたがる油田牧の野馬込跡が、令和元年10月16日「下総佐倉油田牧跡」として香取市では4つ目の国指定史跡に認定されています。

(以下、掲示物の内容) 

ここは九美上(くみあげ)29番地の1

◎なんでこの地名がついたのかな?

1 初富(はつとみ) (鎌ヶ谷市)

2 二和(ふたわ) (船橋市)

3 三咲(みさき) (船橋市)

4 豊四季(とよしき) (柏市)

5 五香(ごこう) (松戸市)

6 六実(むつみ) (松戸市)

7 七栄(ななえ) (富里市)

8 八街(やちまた) (八街市)

9 九美上(くみあげ) (香取市)

10 十倉(とくら) (富里市)

11 十余一(とよひと) (白井市)

12 十余二(とよふた) (柏市)

13 十余三(とよみ) (多古町、成田市)

 これらは、13の開墾(かいこん)地の名前で、移住(いじゅう)開墾(かいこん)の順にしたがって、数字と美称(びしょう)を組み合わせて作られました。

「九美上」は、九番目の九と美称の美・上がつけられました。

 香取市は昔、下総(しもうさ)国(こく)の一部でした。下総国では、飛鳥(あすか)時代(じだい)にはすでに馬の飼育(しいく)が始められ、古くから馬の特産地(とくさんち)でした。

 江戸時代(えどじだい)になると、軍馬(ぐんば)を養成(ようせい)するために、幕府(ばくふ)直轄(ちょっかつ)の牧(まき)※馬を飼育(しいく)する場所 として、千葉県内に3か所整備(せいび)されました。小金(こがね)牧(県北西部)、佐倉(さくら)牧(北総地域)、嶺岡(みねおか)牧(県南部)です。

 九美上は、佐倉牧(七つの牧があった)の一つである「油田牧(あぶらだまき)」(九美上、福田地区)の一部です。

 明治2年に新政府は、これらの牧を開墾(かいこん)して農地に変えることを計画(けいかく)し、入植者(にゅうしょくしゃ)を募集(ぼしゅう)しました。江戸幕府(えどばくふ)に仕(つか)えた武士(ぶし)や、商人、農家の次男・三男など、幕末(ばくまつ)の混乱(こんらん)で仕事を失ったりした人たちが自作農を夢見て入植(にゅうしょく)しました。

 明治5年には、九美上村には31戸、112人の住民が住んでいたとの記録が残っています。

 馬が放牧(ほうぼく)されていた原野(げんや)を切り拓(ひら)いて現在のような豊かな大地にした苦労は言葉に表すことができないほどであったと想像できます。

 

 東京に、馬込(大田区)や駒込(豊島区)という地名があります。ここにも、かつて馬を放牧して、時期が来たら「馬を追い込んで」選別する場所があったのでしょうか。  (文責 海寳)

 

 (以下「佐原の歴史散歩道」島田七夫氏著 より抜粋)

 「野馬込」とは、山林の中に高い塀が迷路状に造られ、追い込まれた野馬は一頭ずつチェックされる。捕馬は毎年8月から9月初旬にかけて行われ、3歳馬と老馬を選び、捕らえられた馬はすべて酒々井に送られた。そこで一部を「御馬」として献上し、他は払い馬として売った。

 「野馬込」は、周囲の人々にとっては年中行事的な娯楽として、その日を待ちわびていたということである。