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学校から
地名のなぜなぜ 7月2日(木)
「ここは香取市九美上29番地の1」
「地名のなぜなぜ?」という掲示物を作成し、校長室前に掲示しています。
児童は、「へぇ~、そうなんだ」「はじめて知った~」と口々につぶやきながら、書かれている説明を興味深く読んでいました。
福田・九美上にまたがる油田牧の野馬込跡が、令和元年10月16日「下総佐倉油田牧跡」として香取市では4つ目の国指定史跡に認定されています。
(以下、掲示物の内容)
ここは九美上(くみあげ)29番地の1
◎なんでこの地名がついたのかな?
1 初富(はつとみ) (鎌ヶ谷市)
2 二和(ふたわ) (船橋市)
3 三咲(みさき) (船橋市)
4 豊四季(とよしき) (柏市)
5 五香(ごこう) (松戸市)
6 六実(むつみ) (松戸市)
7 七栄(ななえ) (富里市)
8 八街(やちまた) (八街市)
9 九美上(くみあげ) (香取市)
10 十倉(とくら) (富里市)
11 十余一(とよひと) (白井市)
12 十余二(とよふた) (柏市)
13 十余三(とよみ) (多古町、成田市)
これらは、13の開墾(かいこん)地の名前で、移住(いじゅう)開墾(かいこん)の順にしたがって、数字と美称(びしょう)を組み合わせて作られました。
「九美上」は、九番目の九と美称の美・上がつけられました。
香取市は昔、下総(しもうさ)国(こく)の一部でした。下総国では、飛鳥(あすか)時代(じだい)にはすでに馬の飼育(しいく)が始められ、古くから馬の特産地(とくさんち)でした。
江戸時代(えどじだい)になると、軍馬(ぐんば)を養成(ようせい)するために、幕府(ばくふ)直轄(ちょっかつ)の牧(まき)※馬を飼育(しいく)する場所 として、千葉県内に3か所整備(せいび)されました。小金(こがね)牧(県北西部)、佐倉(さくら)牧(北総地域)、嶺岡(みねおか)牧(県南部)です。
九美上は、佐倉牧(七つの牧があった)の一つである「油田牧(あぶらだまき)」(九美上、福田地区)の一部です。
明治2年に新政府は、これらの牧を開墾(かいこん)して農地に変えることを計画(けいかく)し、入植者(にゅうしょくしゃ)を募集(ぼしゅう)しました。江戸幕府(えどばくふ)に仕(つか)えた武士(ぶし)や、商人、農家の次男・三男など、幕末(ばくまつ)の混乱(こんらん)で仕事を失ったりした人たちが自作農を夢見て入植(にゅうしょく)しました。
明治5年には、九美上村には31戸、112人の住民が住んでいたとの記録が残っています。
馬が放牧(ほうぼく)されていた原野(げんや)を切り拓(ひら)いて現在のような豊かな大地にした苦労は言葉に表すことができないほどであったと想像できます。
東京に、馬込(大田区)や駒込(豊島区)という地名があります。ここにも、かつて馬を放牧して、時期が来たら「馬を追い込んで」選別する場所があったのでしょうか。 (文責 海寳)
(以下「佐原の歴史散歩道」島田七夫氏著 より抜粋)
「野馬込」とは、山林の中に高い塀が迷路状に造られ、追い込まれた野馬は一頭ずつチェックされる。捕馬は毎年8月から9月初旬にかけて行われ、3歳馬と老馬を選び、捕らえられた馬はすべて酒々井に送られた。そこで一部を「御馬」として献上し、他は払い馬として売った。
「野馬込」は、周囲の人々にとっては年中行事的な娯楽として、その日を待ちわびていたということである。