学校から

「ちょっと」 10月13日(木)

 25年ぐらい前の話です。

 その頃は、中学校に勤務しており、学校全体の生徒指導主任を任されていました。

 その日も部活動の朝練習を終え、職員室に向かって歩いていました。そのとき、中3の担任の先生が近づいてきて、次のように言われました。

 「うちのクラスの生徒が、昨日の帰りに駐輪場で〇〇くんに蹴られたと言ってます。何人かも現場を見ています。どうしましょうか?」

 「わかりました。昼休みに訊(き)いてみます」

 加害者の生徒は、私の部活の部員でした。チームのエースとして活躍している生徒です。ただ、少し気が短くやんちゃな面もあったので、彼のクラスの担任ではなく、私が話を聞くことにしました。担任にも了解を得ました。

 

 昼休みに当人を相談室に呼んで話を聞きました。

 「昨日の帰りに、駐輪場で誰かを蹴らなかったか?」

 「えっ⁉ …やってません」

 「本人からの訴えがあったし、その場を見ていた人も何人か確認したけど…」

 「 … 」

 「よく思い出して」

 「やってません」

 「ほんとに?」

 「はい、ぜったいやってません」

 「そうか… 」 (困ったな)

 「 … 」

 「ぜったい?」

 「はい、ぜったいです!」

  ・・・

 (しばらく沈黙)

  ・・・

 「んー、ちょっとやったかもしれない?」

 「 …… えーと、ちょ、ちょ、ちょっとやったかもしれません」

 「なにをやったの?」

 「ちょっと、あしを、その、けったかもしれません…」

 「そっか、思い出してくれてよかったよ」

 「はー、すいません…」

 「◯◯のことは部活では大黒柱として信頼してるし、事実を聞いた時には『そんなはずはない』と思ったんだけど、よく思い出して正直に認めてくれてよかったよ。◯◯がそんな人間ではないことはよく知っている。なにか事情があったのか? でも、やったことはよいとは言えないな」

 

 担任の先生のもとに連れていき、結果を報告した後、当該学年にその後の指導(謝罪と反省)を託して指導を終えました。

 

 この、エピソードはいくつかの学校の保護者会で何度か話したことがあります。保護者は一様にうなずきながらよーく話を聞き、最後に温かな微笑みで受け止めてくれました。

 子供には、中学3年生でもこのような一面があります。当然、うそをつくこともあれば、隠すこともあります。うそをうそで塗り固めることになって、あとに引けなくなってしまうこともあります。最後には、どこでどんなうそをついたのかもわからなくなってしまいます。ごちゃごちゃになってしまうのです。よくありました。

 そうなってしまうと、うそをついている本人が苦しくなってしまいます。学校は警察ではありません。認めて反省し、もうやらないと約束しさえすれば指導は終わりです。再び繰り返すケースもありましたが。

 被害者を救済することが最優先ですが、うそをついて引っ込みがつかなくなった子供を救うことも大切です。

 このケースでは、「ちょっと」が効果を発揮した事例と言えます。子供の中では「完全にやった」のではなく、「ちょっとやった」くらいの意識のレベルなのです。だから、「やってません」と言い張るのです。子供の論理です。しかし、このことも認めたうえで次に進まなければなりません。  

 いろいろなことがあります。 

 

 谷川俊太郎(たにかわしゅんたろう)というかなり有名な詩人がいます。

 私も大好きです。なぜかというと、言葉にできない微妙な心の揺れやひだを、平易(へいい)な言葉で見事に表現するからです。

 

 彼の作品の一つに「うそ」という詩があります。

 かつて教育相談を学んだ中で、ある臨床心理学の本で紹介されていて知りました。

 それは、詩の中の一部(ほんの3行)でした。

 

         (前略)

   いっていることはうそでも

   うそをつくきもちはほんとうなんだ

   うそでしかいえないほんとのことがある

       (後略)

             (谷川俊太郎「うそ」より)

 

 子供の心理を見事についていると思いませんか? 

 大人にもグサッとくる気がします。 (文責 海寳)