学校から

横断歩道が設置されました。 4月12日(月)

 県道佐原・八日市場線からわらびが丘小学校方面に曲がる五差路の交差点があります。旧佐原三中時代は、通学する中学生の自転車と車の接触事故が多かったと聞きました。先月、この交差点に横断歩道と歩行者用信号機が設置されました。しかもコーナーには、歩行者待機ゾーンとポールまで設置されています。これまでは、県道を渡るための歩行者用信号と2本の横断歩道しかなく、市道を渡るための横断歩道と歩行者用信号機はありませんでした。

 わらびが丘小学校では、学校から2㎞以内の児童は徒歩で通学することになっています。しかし、歩道が整備されていないため、現状では歩くことはできません。道幅が狭いわりに交通量が多く、しかも大型車両も結構通り、大変危険だからです。ですから、徒歩児童の家庭には車での送迎をお願いしています。

 県道の歩道とともに、市道への歩道の整備もできるだけ早くお願いしたいものです。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 交差点の一角に石碑が立っています。足元をすぐ横の木の太い根が覆っていて、周囲を十数本の小さな石柱が囲んでいます。地面の一部は新たにアスファルトで固め、歩道にしてあります。石碑には「旗立松」と刻まれています。「松はないのに…」とちょっと不思議に思い、気になったので校長室の本棚にある書籍でさがしたところ、島田七夫氏著「佐原の歴史散歩」(平成10年発行)に次のように載っていたのを見つけたので引用します。

(以下引用)

 「旗立松」

 「バス停『九美上』の近くであるが、五つの道が交叉する東側、駐在所脇に『旗立松(はたたてのまつ)』の石碑がある。碑は昭和2年に建てられたもの(碑文は宮沢春文香取神宮宮司)で、それによると「前九年の役(1051)」に陸奥守兼鎮守府将軍の源頼義が安倍氏征討の命をうけて、奥州に向かう途中、軍神の香取神宮に戦勝祈願するためここを通り、この松に軍旗を立てて兵馬を休めた」ということである。かつては、目通り周囲4メートルもある枝ぶりの見事な松があって、故事を伝えるふさわしいものだったというが、その松も今はない。小松であるが何代目であろうか」(引用ここまで)

 今から970年前の平安時代には、この場所に香取神宮へ向かう通りがあったこと、そこが今でも交通上便利な場所になっていることを思うと何とも言えない気持ちになってきました。鎮守府将軍の一団であるので、数百人規模はいたでしょうか、それ相応の規模の兵馬がここでしばし休息したことを想像すると、歴史のロマンにかられます。

 ちなみに、源頼義の系譜をひも解くと、父は源頼信といい、かの有名な藤原道長の四天王の一人と呼ばれたエリートでした。また頼義の子孫には、足利尊氏、源頼朝、武田信玄がいます。

 何気なく見かけた石碑に、このような歴史的事実があろうとは思いもよらないことでした。でも、そのおかげで高校の日本史で習って以来の「前九年の役(えき)」について詳しく調べることになり、当時は言葉だけ覚えてそのいきさつなど詳しいことはまったく知ろうともしなかったのが、そのつながりから結末まで知ることとなったのはちょっと得した気分です。誰かに自慢げに話してみようと思います。アウトプットは大事ですから。 (文責 海寳)